2010年11月27日土曜日

ヲコ(烏滸)出でよ

 柳田国男の『笑の本願』の序に、「町にも村里にも家にも路上にも、高笑の声が甚だ乏しくなった頃から、急に世間には「たのしい」といふ古い形容詞が流行し始めた」とある。さらに「じっと幼い人たちの挙動を見て居ても、今は彼等の笑ふといふことが、よほど以前よりも少なくなって居るのは、言ひやうも無い深い我々の寂しさである」と書いている。これが昭和二十年の話である。今から六十有余年前のことだ。そのときすでに笑いが乏しくなったと柳田国男は嘆いていたわけだ。そして柳田は「人を楽しませるといふ運動を、将来の一つの目標として見たい。といふやうな「ヲコ」の願望を、今もまだ自分は抱いて居る」とつぶやいている。(注 ヲコ=烏滸、烏滸がましいのヲコであるが、その意味は進んで人を笑わせようとするもの、バカのこと)
 今日、街角に生活者の健全な高笑いを聞くことはない。町角や公園に行っても遊ぶ子どもの笑い声に出くわすことは滅多にない。チンドン屋も焚き火もテキ屋も口笛を吹く人も見かけなくなった。いったいヲコはどこにいる? 誰かヲコになって人を笑かそうとするものはいないか。